第二十六話 山脈を抜ける道

 前後左右、どこまでも広がる緑の海原にただ一人佇んでいる。
 頭上には青く澄んだ空が広がり、白い筋雲を纏った山々の峰が遥か遠くで壁のように聳え立ち、それらがまるでこちらをじっと見下しているような、押し潰されそうな圧迫感を覚える。
 でもそれはきっと勘違いだ。
 あんな大きな山や空が、身体の半ばまでを草に埋もれているとても小さな私に気付く筈がない。私が草原から見上げているのも知らないのだ。
 あそこから見える景色はどんなものなんだろう。
 あんなに遠い所からでもここに居る私を、お母様や村のみんなを見付けられるだろうか。
 見てみたい。だけど、あそこに行くにはどうしたらいいのだろう。
 私は村から出たことがない。
 一人でこの草原に来たのだって初めてだ。きっと後でお母様に叱られる。
 誰かが呼んでいる声がする。
 何処だろう。
 そう思った瞬間、辺りの景色が一斉に白く霞み、私の意識も白く塗り潰され――――。



「レン、起きなさい」

 白く霞んだ世界が晴れると、目の前に薄汚れた麻布が現れた。
 鼻腔はその下に敷き詰められた乾いた藁の匂いを感じとり、同時に先程までの光景が夢であったと認識させる。
 麻布に横たえていた頭を起こして辺りを見ると、窓から差し込む朝日を浴びて輝かせる綺麗なブロンドの少女が身支度を整えている姿が目に入った。
 夢うつつでぼんやりしていた頭が動き始めるに伴い思い出す、ここは昨日から宿泊しているギルド出張所兼の宿屋だ、

「おはよう……」
「もうお昼前よ」
「……うぇ? マジかよ」

 寝起きで怠い身体を起こして窓の外を見ると、柔らかさを残しながらも確かに鮮明な陽光が辺りの木々や家々を照らしている。
 なんてこったい、朝飯を食いそびれちまった!

「朝食ならちゃんと貰ってきているわよ」

 ショックのあまり顎をカックンと落としている俺の心の声をどうやって拾ったのか、トリーシャは木製のサイドテーブルを指差した。そこには湯気は立てていないものの丸パンとサラダ、スープのセットが木のトレイに載せられている。
 品目は朝食にはありふれたもの。しかしそれらは朝から食うには少々難物と言わざるを得ない代物だった。
 見た目は普通のパンなのにスープに浸さなければトカゲのトゲトゲしい歯を以ってしても噛み切れないし、そのスープは野菜と僅かな肉を水から煮込んだだけ。おまけに肉は何の肉だか分からないし、スープに溶け込んだ獣臭を消そうという努力は全く見えない。ただ野菜を千切ってドレッシングらしき液体を掛けただけのサラダが逆に救いに見えるから困る。

 この世界の食事が現代日本に匹敵するクオリティを持っているのは、サインツ家での上質な食事から把握できている。
 あれがこの世界の標準ではないにせよ、ここに至るまでに見てきたものから鑑みれば少なくとも近代レベル以上にあるのは間違いない。
 しかしこれは中世レベルへ逆戻りしているのではなかろうか。黙々と旅支度を進めているトリーシャがやや不機嫌そうに見えるのは、もしかしなくてもこの飯が気に入らなかったからだろうなぁ。
 何れも品質への拘りが全く見えない飯だが、食うのと食わないのでは大違いだ。こんなもんでも腹は膨れる、これ重要。
 久々に味わうエスペリア南部並みのクオリティにげんなりしつつ、紅い羽毛に軽くブラシを掛けて寝間着を着替えたらここでの準備は完了だ。鞍やバッグ類の中身を確かめ、寝袋を抱えて部屋を出た。

 アラド=ヴァレンの国土は半分近くが山地だ。
 北から西に連なる険しい山脈から張り出した峰が海岸付近まで続いている所もあり、先に訪れたイグレシア氏族領ほどではないが緑の深い国である。
 南北に長い形をしており、陸路を行くにはアップダウンの多い道程となった。
 しかし緑も多ければそれなりに水もある土地のようで、乾燥した荒野続きのエスペリアと比べれば過酷さはそれほど感じない。加えて騎馬隊による街道の巡回も頻繁に行われており、野盗はおろか魔獣や亜人の類との遭遇も稀という温い旅路だ。北部を野盗に良いように荒らされているためだろう、領主らの神経の尖りようを垣間見た気がした。

  そんな訳でベルオーラを出発して一週間で王都ノヴァリスまでは楽に到達出来た。
 問題はここからである。
 昨日到着して一泊したのは北大陸へ続く大街道、その山麓の宿場だ。
 ここに辿り着くまでに聞いた噂が本当ならば、ここから先はエスペリア南部の荒野に勝るとも劣らない無法者(ヒャッハー)どもの楽園ということになる。一日の間に三度も別の野盗に襲われたとか、国軍マジで仕事しろって話だ。
 今やノヴァリスの冒険者ギルドでは護衛の仕事が大盛況だ。本来なら傭兵隊へ依頼されるような大規模な商隊護衛の仕事も感情的な反発から冒険者ギルドへ依頼されているそうで、傭兵業を廃業して冒険者へ転身する者が後を絶たないそうだ。まー、傭兵隊に所属していないフリーランスが冒険者って認識もあるっぽいから転業そのものは難しくないようだが。

「この辺じゃさすがに輸送護衛の仕事は殆ど無いか」
「ここから運ぶなら直送ではなくノヴァリス経由でしょうからね。あそこまでなら護衛は殆ど要らないわ」

 一階に降りた俺たちは壁の一画に貼られた半紙の群れをざっと眺めて呟き合う。
 ここも小さいとはいえ冒険者ギルドの出張所である以上は依頼の受付業務もちゃんと行っている。ここに貼られているものではやっぱりというか警備の依頼が目立つ。地方領主の館の警備増強のような限られた範囲のものもあれば、集落や市街、果ては田畑の巡回警備といった広域のものまで様々だ。

「採集はそこそこ……いや、結構あるな」
「リスクが高まれば普段こういうのを請け負っている人も当然、南に逃げるわね」
「あら、採集の仕事を請けてくれるのかしら?」

 話に割り込んできたのは花が咲いたような明るい笑顔を湛えた女性。見たところ三十そこそこだろう彼女は楚々とした佇まいで仕草の端々が上品な、こんな田舎で燻っているのが不思議なくらいの美人さんだ。
 これほどの美人を奥さんに迎えたここの主人は大層羨ましがられただろうが、忘れてはいけない。今朝の食事を用意したのは誰あろう、この人である。しかも品質に拘っていないと評したが、なんとパンから全て彼女の手作りでありかなりの情熱が注がれているのだという。
 昨夜、用意された料理は普通に食えた事から、あれは恐らく主人か他所の人の手によるものだろう。

「いやぁ、いつ戻ってこれるか分からないですから。何が依頼されているかを見といて、見つけたら集めておくって感じですかね」
「ふぅん、残念。このところ、こういう仕事を請けてくれる人が減っちゃったから困ってるのよ。気が向いたらよろしくね」

 そう告げると彼女はテーブル席に座った他の客の方へと歩いていく。
 気立ては良いし器量も良い、でもあのメシマズはいただけない。ままならんものだ。
 採集対象の植物と数量を幾つかメモしたら後は出発だ。腰に鞍とバッグ類を括り付け、大柄なトカゲも悠々通れる両開きの扉を開けて外へ出ると、常緑樹の緑がチラホラ見える冬山が遥か彼方まで続く峰を伸ばして壁の如く聳え立っていた。
 アレを越えるわけではないが、挑む事に違いはない。
 ゴクリ、と生唾を飲み込んでいると、トリーシャが反動をつけて跳び上がって鞍に跨る。

「そういえばテレーゼってこの辺に帰ったんだろ? ちょっと顔くらい見てってもいいんじゃないか?」
「今はそっとしておいてあげて」

 決して山に挑むのが怖くなったわけじゃない。そりゃあ野盗どもにいつ襲われるか分からない不安はあるけどさ、誰かが背中を押してくれたら前に進めると思ったんだ。
 でも上から降ってきた声は素っ気ないようで、様々なものを抑え込んでいるのがなんとなく分かる声だった。
 だけどそんなことを言われたら余計に気になってしまうのが人ってもんだ。別れの前日に見せた姿が頭を過り、問い質そうと振り返るが、首をやんわり撫でられて止められる。

「帰りに寄ると、先に伝えているわ」

 そう言われてしまえばこれ以上、問い詰めることは出来ない。納得はしていないがここでケンカしても仕方がないので、渋々歩を進めて村を後にした。


 麓の村から竜人郷までは凡そ四日の道のりと聞いた。
 この辺りの治安が悪化して既に何年も経過した今、平時という言葉が全く意味を成さなくなっている気がしなくはないが、目安にはなろう。
 すれ違う旅人は多くないが、全く居ないわけではない。山中とはいえ山の恵みを平野部へもたらし、日々の糧を得る人々は多いのだ。荷車を引く彼らは武装した多くの護衛を引き連れており、この山が抱えている危険な現状を否応なく認識させられる。
 それでも人通りのある初日は大した問題もなく経過した。街道に敷設された魔物避けの結界装置を見つけ、その付近で野営して翌日は早くから行動を開始する。
 半年以上の経験があるとはいえ、今回はたった二人。大人数は色々と大変ではあったが、連帯感から心細さは殆どなかったと荷馬車を中心にした旅路を思い返して肌寒さを覚える山道を歩く。

「……なんか見られてねーか?」
「厄介なのが来たわね」

 俺の背に跨ったトリーシャは腰の剣に手を掛け、チクチクと刺すような視線の元を睨みつけた。
 それは周囲の茂みの中に潜み、黄色く濁った瞳でじっとこちらを追い続けている。正確には分からないが、数は結構多い。

「脚力に任せて振り切るか?」
「他所ならともかく、ここでは無駄よ。地の利は彼方にあるし、数が増えるだけ」
「じゃあ……」
「面倒だけど……手早く済ませるわよ!」

 鞍から跳び上がったトリーシャは左手へ、俺は右手へと跳び掛かった。
 両手に構えたグラススタッフにマナを流しつつ藪を薙ぎ払うと、虚を突かれて逃げ遅れた奴の頭部にクリーンヒット。赤黒い皮膚の小柄な亜人が枯れ草の中から弾き飛ばされ地面を二転三転し、樹の幹にぶつかってぐったりと倒れ伏す。
 仲間がやられた事で、亜人たちはいきり立って騒ぎ始めた。瞼の無いギョロリとした大きな目を顰め、どこぞで拾ったと思われる刃がボロボロの短剣を振り上げ、甲高い声でキーキーギャーギャーと喚き立てる。
 その体躯は十歳程度の子供と同じくらいだろうか。赤く薄汚れた肌には体毛がちらほら生えているようだが、頭髪は殆んど生えていない。耳は大きく先が尖っており、鼻は削がれたように低く、唇の無い大きな口からは黄色く汚れた牙がずらりと覗く。
 デミオルゴス、と呼ばれている亜人だ。
 個体としては非力で醜悪な外見くらいしか特徴はないが、繁殖力が強いらしくとにかく数が多い。一匹見掛けたら三十匹の格言はこの世界ではコイツにも当てはまる。今も見える範囲で五匹は居るか、キモウザい。
 ここではこの数が厄介だ。
 他の場所で遭遇したなら追い払うなり逃げきってその場を離れれば良い。しかしここでそれをやれば、コイツらは際限なく数を増やして追い続けてくる。
 最良の対処法はセオリーとは逆、見つけたら即全滅させることだ。

「我が理は如何なる危難も犯す事罷りならず――プロテクション!」

 金色の光を帯びたグラススタッフを振るい、飛び掛かってくる赤禿亜人の顔面に叩き込む。
 俺自身の膂力は非力だが、強化したグラススタッフの一撃は小柄な亜人を撃退するくらいなら十分な威力を持っている。鋭角に尖った三角柱がめりこんだ顔面は頭蓋骨ごと陥没し、地面に倒れてじたばたと藻掻き始めた。
 それを手近に接近した奴目掛けて蹴り飛ばすと、二匹絡んで揉んどり打つ間に左右から三匹が一斉に躍り掛かってくる。
 全員が短剣のような得物を持っているわけではなく、コイツらが手に握っているのは拳大の岩石だ。プロテクションで防護しても、石も殴られればやはり痛い。
 蹴り出した足でそのまま踏み込み身体を前に進めて三匹の初撃を回避するが、奴らは止まることなく背後から襲い掛かってくる。このままだと振り返る間に飛び掛かられてしまうだろう……あんま触りたくないんだけど、背に腹は代えられねぇ!

「ギャキャキャ――ギャヒッ!?」

 背後に迫った奇声が押し潰されたような悲鳴に変わる。
 尻尾から脊椎へと伝わる不快な衝撃に顔を顰めながらも、今はそれを気にするべきではないと意識の慮外に追いやり、尻尾を振り抜いた勢いを使って身を反転。驚いてたたらを踏んでいた亜人の横っ面を杖で殴り飛ばした。
 尻尾の一撃はそれなりに強烈ではあるが、生命を奪うほどの威力は無い。どうやら胴体に受けたらしい亜人はもう一匹にぶつかって一緒に倒れたようだ。その後頭部へ杖を思いっきり叩き込み、下敷きになった奴の頭も打ち据える。
 即死はしないかもしれないが、頭蓋骨を大きく窪ませた上に頚骨がへし折れていれば長くは持つまい。
 地に転がった残り二匹も杖で強打して始末し、辺りに潜んでいるのが居ないか確認してようやく一息吐く。茂みを掻き分けて街道へ戻ると、トリーシャは剣に付いた血を拭っているところだった。

「なんだよ、先に終わってたんなら手伝ってくれよ」
「手際よくやれてたじゃない」
「どこがだよ。三匹に背後を取られて危なかったんだぜ?」
「そう言う割には冷静に対処できていたように見えたわ」
「苦し紛れの反則だよ、トカゲじゃなきゃ危なかった。なぁ、あいつ殴ったトコロ、変色してないよな?」
「するわけないじゃない。獣が血の臭いを嗅ぎ付ける前にさっさと行くわよ」

 血を拭った紙を捨てて剣を鞘に納めると、トリーシャは鞍に跨がる。
 俺も連戦はごめん被りたい。グラススタッフに付着した汚物を拭いつつやや駆け足気味にその場を立ち去った。
 その後もデミオルゴスは幾度となく襲い掛かってくる。それらを警戒し、撃退しながら進むため初日のように距離を稼げずに日は暮れていく。
 二日目の野営も結界装置の近くで、と思ったらそこには先客が居た。

「やあ、勇敢なお嬢さん方だ。たった二人で山を突破するつもりかい?」

 そう声を掛けてきたのは口髭を蓄えた商人風の男だ。ちょっと老けて見えるが声は若い、多分二十後半ってところか。人間だった頃の俺とそう変わらないくらいだろう。
 周囲には小振りな荷馬車と五人ばかりの護衛、彼らは冒険者のようだが何人かは慣れない感じがある。多分、傭兵からの転業者だろう。

「途中までよ。北へ出るなら西回りで行ったほうが安全でしょう?」
「違いない」

 トリーシャの返答にくつくつと笑って頷くと、男は野営の準備を進めている護衛たちをチラリと見る。

「君たちもここで休んでいくのかね?」
「そのつもりだけど、お邪魔かしら?」
「とんでもない! それなりに腕に覚えがあると見た、こちらとしても危険はなるべく減らしたい」

 やや大げさな身振りで答えた男は俺と鞍上のトリーシャの姿をざっと見回し、ニッと口角を上げて笑みを作る。

「それなりに、ね。一晩の間だけど、よろしく」
「こちらこそ」

 鞍から降りたトリーシャと握手を交わした男は、俺にも手を差し出してくる。

「それにしても君の羽根は鮮やかだな。一切混じりないのも珍しいが、この燃えるような緋色というのも初めて見た」
「四六時中見てたら暑苦しいってよく言われるけどな」

 皮肉っぽく笑って手を握り返すと、男は鼻白んだように呆気に取られる。しかしそれも一瞬の事で「そんなもんかね。私は綺麗だと思うが」と困ったような笑みを浮かべた。
 かく言う俺もベルオーラでは来客や出先でよく誉められたし、ちょっぴり自慢気ではある。

「それで、だ。ここで会ったのも何かの縁って事で、その綺麗な尾羽を二、三本くれないかな?」
「げっ! やっぱりあんたもかよ!」

 そして羽毛を誉めた人は大抵、羽根を欲しがるのだ。
 保存処理を施して額に入れて飾る、と言う人もいれば、羽ペンにしたいと言う人もいて用途は様々だ。中には羽扇を作りたいから羽毛を全部刈らせろなどとトンでもない要求をしてきたどっかの令嬢もいたな……。

「珍しい色の羽根を持っているトカゲの宿命みたいなものよね。緑の羽根は無病息災、青の羽根は乾き知らず、黄色の羽根は商売繁盛って」

 ばつが悪そうに曖昧な笑みを浮かべる男に代わり護衛の一人、身軽そうな装備の女がクスクス笑って口を挟む。
 トカゲの羽毛色で最も多いのは茶色系統で、俺のような色はかなり珍しい。そのため彼女が語ったように羽根の色によって験担ぎの御守りにされることがあるのだ。中でも珍重されているのは純白と漆黒で、それぞれ平和と勝利の象徴なのだとか。

「ま、いーぜ。どーせ春には生え変わるしな。でも叶わなかったからって苦情は聞かねーぞ」
「ありがとう。所詮は願掛け、分かっているよ」

 そう言いつつ男は背後に回ると真剣な眼差しで吟味し、尻尾から大きめの羽根を三本引き抜いた。……根本が太かったみたいで、ちょっと痛い。
 因みに赤い羽根は恋愛成就の御守りだそうだ。つまりこの男には想い人がいるってことだな。

「叶うと良いね」
「……まぁね」

 先程とは別の女性の茶々に苦笑いで応じながらも否定しない辺り、結構長い付き合いのある連中らしい。
 それからはこの辺りにデミオルゴスが巣を作っている可能性など情報交換を行い、手持ちの食料を出し合って俺が調理したりと久々に賑やかな野営を行い、二日目を乗り切った。
 朝、山頂から流れ落ちてくる冷たい空気に身を震わせながら、俺たちは更に北を目指して歩く。
 この辺りの村町を巡回しているという行商の彼らとは互いの旅の無事を祈り、それぞれの旅路についた。


 北大陸と半島を繋ぐ重要な街道ではあるが、山道となれば狭く曲がりくねっている。これが日本なら片側三車線くらいの大きな道路がコンクリートの高架で敷かれているだろうが、目の前にある現実は最低限、荷馬車が通れる程度の広さと平坦さが保たれているに止まっている。
 それでも全く整備されていないよりはマシだ。産後ということもあり体調や体力的な懸念はあるが、今のところトカゲの健脚に異常は見られない。
 赤禿の亜人に襲われる率がやたら高い以外は概ね順調な道程ではないかと思う。
 その亜人の気配が、ある時からパタリと消えてしまった辺りに違和感を覚えるまでは、だが。

「ちょっと静かすぎないか?」
「そうよね……獣も鳥の声も聞こえないなんて」

 一見、崖のようにも見える斜面に蛇行して敷設された道を歩きながら、すっかり静まり返った辺りの森に視線を巡らせる。
 葉の落ちた木々が乱立する様はは見るだに寒々しい空気を漂わせているが、今はその空気の流れすら止まったような静寂に包まれている。
 鬱陶しい亜人の襲撃がないのはいいが、この静けさは不気味だ。

「さっさと駆け抜けるか?」
「そうね、それがよさそう……ッ!?」

 言葉を交わしていたその時、遠くからパキパキと細い枝や枯れた草がへし折られる音が聞こえた。
 なんだろう、と耳を澄ませて音に意識を集めると、ズン、ズン、と重い音も響いているのに気付く。何かデカイものが歩いている? と音のする方を凝視していると、その発生源らしい物体が折り重なる枝の向こうにちらほらと見え隠れしている。
 なんだアレ……トカゲ? それにしては羽毛が無いな、灰色でざらっとした感じで……ていうか遠近感的にあの大きさはおかしくないか?

「なんで……? 冬眠してる筈じゃ……」
「おい、トリーシャ。なんだアレ?」
「は、早く逃げて!」

 鞍上のトリーシャが何やら呆然と呟いているが、俺の問いかけに我を取り戻すと首に縋り付いて小さく叫んだ。
 何だか分からんがトリーシャの様子はただ事ではない。せっつかれるままに駆け出すと、冷たい冬山の空気をビリビリと震わせて咆哮が轟く。
 野盗や亜人の脅威は散々聞いていたが、こんなのが出るとは聞いていない。
 色々と物申したいことはあるが、今は急斜面を駆け上がる事に全精力を注ぐしかなかった。


初稿 2013.08.23
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