第二十一話 山中強行〜イグレシア領

 最後の壁はそれほど苦しめられることなく、無事に通過することが出来た。
 それというのも、こちらは城壁に作られた排水口を泳いで出るだけだったからだ。出口は侵入防止の鉄柵で塞がれていたが、何処ぞの誰かが予め細工を施していたようで、格子の一部が簡単に外れてしまったのだ。
 そうして城壁からの脱出を果たした後は、しばらく運河に身を沈めたまま闇夜に乗じて静かに移動。ある程度王都から離れ、木立がいくつか繁った辺りで水から上がると男の先導に従って奥に進むと馬車がひっそりと隠されていた。
 そこからは正直全く覚えていない。
 待っていたのは俺たちが使っていたものと同程度の大きさの荷馬車で、その荷台に上がって床に腰を落ち着けた辺りで気力が切れてしまったのだと思う。
 汚水塗れの外套を脱ぎ捨てるのすらも億劫で、恐らく相当荒っぽい駆け方をしたはずだが気にする余裕もなかった。呼び掛けられて気付いたら外は明るく、既にテルマスへ辿り着いていたのだ。

「ホントに着いたよ……」

 それは誰が呟いたのか。
 一ヶ月ほどですっかり慣れた硫黄の臭いが鼻に付き、荷台から降りた俺たちの目の前には赤い屋根が鮮やかな瀟洒な洋館が緑豊かな森を背景に佇んでいる。
 ここは貴族たちが別荘を構えている区画で、隣の別荘まで数十メートル程の距離をおいて建てられている。周囲は緑で囲まれテルマスの賑やか喧騒は全く届かず、鳥の囀りと枝葉が揺れて擦れる音が耳に届くだけの静けさに包まれていた。
 いったいどんなインチキを使ったのだろう。
 地球なら未舗装路でも構わず走破するRV車やラリーカーで飛ばせば可能だろうが、同じ馬車で一週間掛かった道程を一晩で走破したとか、どう考えてもあり得ない。

「呆けてないで早く入れ」

 相変わらず抑揚はないがさすがに疲れを感じさせる声に押され、俺たちはぞろぞろと建物に入っていく。
 館に入った俺たちは中で待機していた使用人たちによって身ぐるみ一切を剥ぎ取られ、風呂で隅々まで徹底的に洗われた。都を脱出した経緯から、下水の臭いを撒き散らしているのはマズいということだ。
 着ていた衣類も風呂に入っている間に全て処分されてしまい、代わりにイグレシア氏族の伝統的な衣類が用意されていた。汚水に浸かった衣類は洗ったとしても着るのに抵抗があるけれど、処分する前に一言あってもいいんじゃなかろうか。
 極彩色の布を巻き付けたようなゴテゴテしい衣服を着せられた俺たちは、困惑する暇すらも与えられずあれよあれよと振り回された。そして今は森のど真ん中を歩いている。
 昨夜は睡眠と言うより気絶という方が正しい状態だったので、疲労はとうの昔に限界を超えている。外套のフードで覆った一行の頭は何れも俯きがちで、誰一人として言葉を発しない。
 背の鞍に跨がった二人は揺られながら櫓を漕いでおり、カタリナは前に抱いたプリムに凭れ掛かりそうになる度に呻き声を漏らしていた。

「プリム、ヒーリングを切らすなよ」
「…………はっ!?」

 首を後ろに向けて囁き掛けると夢の国へ旅立っていた少女は、閉じていた瞼を真ん丸に大きく開いて我に帰る。
 いくらマナの扱いに慣れてきたといっても、掌から見えない位置に座った相手の患部へ編んだマナを届け続けるなんて芸当はまだまだ無理だ。なのでヒーリング役をプリムに任せたのだが、最年少かつ体力的にも恵まれていないのだからこうなるのは最早仕方の無い事なのだ。
 イグレシア領へ通じる最短ルートはテルマスの背後に聳える山地を越えるもの。そして先導役の男は迷うことなくそのルートを選びやがった。
 あと一息――それは分かるのだが、険しい山道を無事に越えるのは想像するより遥かに厳しい。何せ道と言いながら殆ど整備されていないのだから。
 今、歩いている所など左右を鬱蒼と生え繁った草むらに挟まれて先も満足に見通せない、獣道より多少広くてマシな程度の踏み固めた土だ。街からそれほど離れていないこの場所でこれなのだから、更に険しくなるだろう行く先については考えるのも怖い。その道程を一日で踏破するなど無謀とかそんなレベルではないと思うのは俺だけだろうか。
 こちらに来てから、日本の暮らしやすさは異常なのだとつくづく思い知らされる。周囲に民家も何も見当たらない深い山中に高速道路やら巨大なダムやらをいくつも建設した親父や爺さんの世代は偉大すぎるわ。


 森の中は鬱蒼として見通しは悪いが、意外とすんなり通過することが出来た。
 何故かといえばその理由はあの街に滞在していた一月を思い返せば自ずと答えは見つかる。冒険者ギルドの登録員たちが定期的に魔物の類いを駆除しているからだ。
 しかしそれも山の手へ近付くに連れて変化が現れる。
 最初に気付いたのはラウラだった。
 周囲の樹木が風に揺られるのとは違う不自然な揺れ方をし始めたのだ。
 長い耳をピクピク動かし、両手でしっかり握った杖型|術装器《スペルノーツ》を胸に掻き抱いて怖ず怖ずと上を見上げる。と、顔が見る間に青褪め、表情は恐怖に引き攣った。

「さすがはエルフってトコね」

 その様子だけで何事かを察したらしいトリーシャは剣を抜き、うんざりと緑の天蓋を見上げる。
 それに倣って俺とジャネット、テレーゼも武器を構える――が、相手の方が行動が一歩早かった。
「キィヤァァアアアアーーッ!」と頭上から一斉に降り注いだけたたましい金切り声と激しく揺れる枝葉のざわめきとで肝を冷やし、虚を突かれて動作に一瞬の停滞が生じる。
 木漏れ日を背に見えたのは黒く、長い腕を持った人型の影だ。それは太い木の枝から飛び降り、こちらの頭上へと落下してくる。
 この出遅れは致命的だった。
 落ちてくる影はざっと見える範囲で三つ、見えない所からもこちらへ迫っているだろう。たとえトリーシャがいち早く臨戦態勢をとっていたとしても、全てを捌ききれるものではない。
 しかし意外な奴が真っ先に動き、それにもまた驚いてしまう。

「えーいッ!」

 やけに可愛らしい掛け声と共に背後から頭上へと放り投げられた物体が二つ。それは円筒状の本体から柄のような細い棒が伸びたボールペン大の物体だ。
 ああ、なんかすっげぇ既視感のある状況だ。つーか昨日の事じゃねーか!
 辛うじて目を閉じる事には成功したが耳を塞ぐまでは至れず、炸裂した手投げ弾が放つ轟音に鼓膜と脳髄を蹂躙され……なかった。代わりに重いものが何かにぶつかった音が聞こえ、ハッと閉じた眼を開くと俺たちをは淡くピンク色に光る幕に包み込まれていた。
 そしてその光の幕の外側に大柄な類人猿が五匹へばり付いている。
 それは黒い体毛が全身の大半を覆い、一目すると異様に大きなチンパンジーのように見えた。その長くて太い手に握られている木の棒に平べったい石を蔓で括り付けて拵えられた簡素な斧は手製のものだろう。
 道具を使えるだけならともかく、それを自作出来る類人猿など日本での知識には無い。猿にしか見えないが間違いなく亜人って奴だ。
 亜人は容姿も体格も様々な種類があるが、何れも単独で襲ってくるような事はまず無い。程度の差はあれど数と連携、そして地の利を生かした狩場へ追い込む狡猾なやり方で仕掛けてくる厄介な連中だ。

「プリム、助かった! ――エナジーボルトッ!」

 詠唱を紡いで突き出したグラススタッフの先端から濃い黄金色の光の塊が飛び出す。
 それは中空を一直線に飛翔し、射線上にあった木の枝に当たると破裂音を伴って光の粒子の華を咲かせた。
 枝は太く、へし折れることはなかったが、表皮を抉られた衝撃で枝は大きく揺らいで何枚かの葉がはらはらと落ちていく。
 当然、そんなものを狙って放ったものではない。光の幕(プリムのシールド)にへばり付いていた亜人たちはこちらが反撃に出るや跳び上がり、光弾を避けやがったのだ。
 奴らが跳び上がる際の衝撃に耐えられず即席のシールドはシャボンのように弾けて消え、遮るものが無くなった奴らはこちらへ向けて再び落下してくる。

「我が強き意思は拳となりて――」

 豪腕と手にしっかり握った石斧を振り翳して迫る猿のようなそれ。
 対してマナの燐光を帯びて仄かに輝くグラススタッフで鋭く突いて胴体に狙うが、奴は空中で器用に身を捩って避けてしまう。
 しかし間髪を入れず薙ぎ払い、リーチを生かした突き込みと連撃を繰り出して着地した亜人に斧を振るう隙を与えず隙を与えず追い込んで最接近は阻止。深い草むらまで後退したそれは醜い顔を悔しげに歪めてこちらを睨めつけた。
 反撃を往なす間に詠唱を紡いで術式を構築し、次の光弾を用意したが、今度はすぐに放つような軽挙は慎む。負担はそれほど大きい訳ではないが、やはり構築のために掛かる時間と集中力の分散は接戦では致命的な隙を生む。
 奴もこちらの得物が帯びた光を強めたのを察してか、草むらに身体の半ば沈めてこちらの出方を窺っている。
 亜人や魔物たちは町の近郊から駆除されているが、森から居なくなったわけではない。棲み処を追われて逃げたものは嘗ての縄張りを取り戻すべく、機会を虎視眈々と狙っているのだ。
 加えて棲み処を奪った人間に対しての怨念は深く、山を抜けるこのルートを通ればこいつらは必ず襲いかかって来るのだという。

「この道も整備して魔物の定期駆除を呼び掛けているのだが、テルマスとイグレシアを繋いでも収益に影響は薄くてな。出資する者は殆ど居らんのだ」

 などと今聞いたところでどうにもならん地域の事情を溜息混じりに語るのは、敢えて空気を読まないあの男。黒尽くめの装いはあの館で脱ぎ捨て、今はオリーブドラブのフィールドジャケットとパンツにダークブラウンの半長靴というアーミースタイルで俺と対峙していた黒毛の亜人を素手で殴り倒している。
 あの黒尽くめでは分かりにくかったがかなり良いガタイを誇っており、癖のあるアッシュブロンドと皮肉げな微笑がニヒルなナイスミドルという奴だと思う。ガルシアとかいう名前らしいが、心底どうでも良い。

「こ、んのぉ……ッ!」

 落下と共に振り下ろされた亜人の斧を軽い身のこなしで避けたジャネットは、小剣(ショートソード)をコンパクトに閃かせる。
 普通に考えれば非力な少女の細腕が振るう小剣の斬撃など軽いもの、対峙した亜人もそう考えて避けもしなかったのだろう。それどころか厚い毛皮と筋肉で覆われた天然の鎧で受け止めて捕らえるつもりだったのかもしれない。
 しかしその予想に反して剛毛に覆われた皮膚はざっくりと裂かれ、斧を持つ二の腕から勢い良く鮮血が迸った。きっと風の術式を刃に纏わせていたのだろう。
 これには亜人も驚愕したらしく、焦ったようにその場から大きく飛び退いて灰色の猫娘を睨みつけた。

「ラウラ! 貴女は自分の身を守ることに専念なさい!」
「レンたちと一緒に固まってな!」

 青白い光の幕に身を覆われたトリーシャとテレーゼは各々使い慣れた得物を振るい、ラウラ目掛けて落下してきた三匹を斬り飛ばしてその目前に立ちはだかる。
 小走りで駆け寄ってきたラウラと共に死角を作らないよう周囲、主に上方からの奇襲に警戒しているが、こちらも亜人への苦手意識から恐慌一歩手前で不安たっぷりだ。

「はッ!」
「せいやッ!」

 短く鋭い声と共に銀光が閃き、鮮血が舞う。
 長柄で重量もある分、障害物の多い環境での取り回しに苦慮しているテレーゼだが、それでも持ち手を短く、刺突を主としていくつもの手傷を負わせて追い詰めている。
 トリーシャはもう言わずもがな。地の利も地形も圧倒的に奴らに有利なのに、それよりも速くて身軽って何なんだよ。木の幹を蹴って三角跳びで方向転換とか、忍者かあいつは。一人で二匹追い回しているし、どっちが仕掛けてきたのか分かんねぇ。

「エナジーボルトッ!」

 横合いから殴られて動転した亜人へ向け、構築を終えていた術式を完成させて射出する。
 反応の遅れた亜人はそれでも逃れようと身を捩るが、筋肉の盛り上がった肩に光弾を受けて大きく仰け反りたたらを踏んだ。
 状況と負傷者の増加に形勢の不利を認めたらしい。だらりと力を失った腕を押さえた亜人はこちらを一睨みすると襲いかかって来たときと同様にけたたましい金切り声を上げ、森の深みへと引き上げていく。傷ついた他の亜人たちもそれに付き従うように後を追って姿を消した。
 傷は負っているが死んだ奴は居ない。仲間意識の強い亜人たちは、下手に命を奪うと後が面倒なのだ。
 その後も魔物や亜人は度々襲い掛かり、その度に追い払って深い森を歩き続ける。
 進んでいく程に道は細く、険しくなっていく。
 比較的緩やかな尾根を歩いているが、標高が高くなればそれなりに傾斜あるため足を重くするには十分だ。
 片側が崖になった細道もある。そういう難所を狙って亜人や魔物が現れるのだから、いい加減うんざりしてしまう。適宜に休憩をとってはいるが、何処から襲われるかも分からない場所では気が休まる筈もない。
 歩き続けるうちに日は昇り、そして傾き、気温も上昇して辺りの草木からは噎せ返るような青臭さが立ち昇る。何処に行っても赤土の荒野ばかりだったからあまり季節感が無かったが、今は雨季の終わり頃らしい。
 後どれくらい歩けばいいのか。
 テルマスから一日で着けると言っていたような気がするが、どう考えても無理だろう。杖や槍に縋るように歩く俺たちを尻目にしっかりとした足取りで悠々と先導を続ける男へ呪詛の籠った視線を投げかけ、岩肌がむき出しになった崖と深い森とに挟まれた狭い道を行く。
 その男の足が道の途中で止まった。
 どうしたのか、と首をのばして先を窺うが、背の低い俺では男の身体が邪魔で見通せない。

「何かあったのかい?」

 殿を務めているテレーゼが最後尾から声を上げるが男は答えず、今までよりも更に警戒を強めてゆっくりと歩みを再開する。
 そのただならぬ空気に戸惑い、やや呑まれながら俺たちはその後について歩く。
 男が立ち止った地点から先はやや開けた広場になっていた。
 左側は相変わらず岩肌がむき出しになった崖がそそり立つが、その一部が異様にせり出して道を埋め、森の木々をも飲み込んでいる。

「土砂崩れか」

 崖を見上げると他とは色合いが異なっている部分が帯状に下へ続いている。
 昨日今日崩れたような感じではないが、さほど前というわけでもなさそうだ。雨季の最中に地盤が緩んだのだろうか。
 すっかり乾いている土砂と落下或いは押し流されて倒れた木々を踏み越えて慎重に先を急ぐ。時折パラパラと崖を転がり落ちてくる小石の音に一々肝を冷やして上を見上げ、一気に駆け抜けてしまいたい気持ちをぐっと堪える。
 これ以上の崩落は無いと思いたいが、こういう現場を目の当たりにすれば恐怖心が煽られるのは仕方のないことだ。
 そして崩落した土砂の中から長く尖った巨大な角が覗いているのを見付けた。

「なあ、テレーゼ。あれ何だ?」

 杖で指し示したのは道が埋まった所からやや外れた森側の土砂。そこだけこんもりと盛り上がって木々を豪快に薙ぎ倒している。

「角? 大きいねぇ、こんなのは見たことがないよ」
「姉さんも見たことがないの?」

 ジャネットの問い掛けに「見たことがないものの方が多いさ」と答えたテレーゼは斧槍の穂先で角を突付き、その広い刃で角の根本周囲の土砂を削り避ける。そこから覗き見えたのは茶色の剛毛に覆われた獣の頭部のほんの一部だが、それだけでもこの下に埋もれているものがとんでもなく巨大であると伝わってくる。

「ゲリュオンだ」

 足を止めていた俺たちを振り返り、男は崖の上を見上げた。

「この辺りでは最も強力な魔獣だが、こいつでも崖崩れに巻き込まれればひとたまりもないということだな」

 崩落の原因もこいつかもしれんがな、と付け加えて歩いていく男を追い、俺たちも歩みを再開する。一瞬、角とか毛皮とか採集しといたら後で金にならんかな、とか考えたが、馬車がないのを思い出して断念したのは俺だけじゃない筈だ。
 そこから一時間ほど歩いただろうか。傾いた日が空を茜色に染め始め、周囲の森の奥が次第に闇に沈んでいく頃、心なしか広くなった道の先に木製の門と柵が見えてきた。
 こんな山奥に人里があるのか?
 いい加減、精神的にも体力的にもとっくに限界を超えている身としては休息の場を得られるのは有難いが、同時に警戒感も募る。
 何より先に見える門扉は閉じているのだ。拒絶されている感がヒシヒシと伝わってきて陰鬱な気分に拍車を掛けてくれる。
 しかし俺たち、正確にはガルシアが門に近づき手を軽く挙げた途端、両開きの分厚い門扉は重々しい音を立てて開き始めた。
 その向こうに居並ぶ武装した男たちは一様に顔を厳めしく、このような田舎の山村に駐屯するには立派過ぎる統一された武具に身を固めている。
 その男たちの列の中から壮年の男が一人、口元に蓄えた真っ白な髭とは対照的なしっかりとした足取りで進み出てくる。そして門の下で仁王立ちし、こちらを見据えて満足そうに頷くと雷鳴が轟くような重い響きで言葉を紡いだ。

「ようこそイグレシアへ。諸君らを歓迎する」



 イグレシアは領土の大半を山地が占める場所だった。
 しかし国土の殆どが乾燥して耕作が儘ならないエスぺリアにあってはさほど貧しい方ではなく、豊かな資源でカスハール氏族をバックアップすることで国内有数の有力氏族として地位を確かなものにしている。
 とはいえ深い山々ではやはり交通の便は悪く、速やかな連絡の疎通と手段の確立は彼らにとって命題だった。
 そして彼らはその回答のひとつを俺たちの前に披露してくれている。

「おおおおぉぉぉぉ……」

 窓に張り付いて感嘆を漏らし続けているのはトリーシャだ。
 ガラスが嵌め込まれたその先には、深い緑とちらほら混ざり始めた黄色とが織り成す山々の稜線が見事な景観を作り出しているのだ。
 山地は広大過ぎてパノラマの先は見通せない程に深いが、それでも1日あれば海に出られるという。
 時おり吹き付ける風にゴンドラが揺られるとそこかしこから小さな悲鳴が上がり、その度に他の乗客たちからクスクスと微笑ましげな笑いが零れる。

「こ、こ、こここここれ、ほ、ほ、ホントーに、ほんッとーに! 大丈夫なんだろーね!? お、おち、おち、お――」

 座席に腰掛けながらも背凭れと床にへばりつくように四肢を突っ張らせ、顔を青くしている我らが長姉殿。プリムやジャネットが怖がるのは仕方がないと思っていたが、テレーゼがここまでビビるとは思ってもみなかった。がこん、と滑車がワイヤーの継ぎ目を乗り越えた拍子にゴンドラへやや大きな振動が伝わろうものなら、ビクッ! と激しく震え上がって涙目で縮こまってしまう有様だ。

「そこまで怖いかぁ?」

 その様子は微笑ましくはあるが、折角の美貌も、匂い立つような色気も母性も台無しだ。
 情けなくて涙も出ねぇ、と溜息を吐きつつ訊いてみればテレーゼは「怖いに決まってんじゃないのさっ!」と普段では考えられない悲鳴のような金切り声で答える。

「いやいや、今までだってもっと怖い場面はいくらでもあったろーが。昨日のでっけー甲冑相手の方がよっぽど怖かったぞ」
「あんなのは上手くやればなんとでもなる。でもコレは自分じゃどうしようもないじゃないかっ」
「ああ……、まぁ、言われてみれば確かに」

 実際に何とでもしてしまった奴の言葉だけに説得力は絶大である。そりゃあもうぐうの音も出ないくらいに。

「太いったってただの綱だよ? それにこんなでっかいゴンドラを、しかもあんな頼りない滑車だけで引っ掛けているんだよ? 怖くない方がどうかしてるよッ!」

 それはまさに魂の絶叫であった。日本が誇る絶叫マシンの数々を是非とも体験させてやりたいものである。
 さて、峻厳なイグレシア領の行き来をスムーズにするために住民たちが採った方法は山と山をロープで繋ぐことだった。そしてゴンドラで人や物を運ぶロープウェイを運用し、スムーズかつ安全な流通を実現している。
 もちろんテレーゼが喚くようなただの綱な訳がない。鋼線を綱様に幾重にも寄り合わせて作られた極太のワイヤー綱だ。その上に取り付けられた滑車にしても見た感じとても頑丈なものに見えたし、何より他の乗客らの顔に危機感は欠片もないのが信頼性の証左といえるだろう。

「俺の住んでた国じゃ、鳥の形した鉄の塊が腹ン中に人を百人以上抱えて空を飛んでるぞ」
「嘘だッ!」

 シークタイムゼロで返ってきた反応に、思わずニヤリと黒い笑みが口角を歪めるのを拒めない。まぁ生粋の現代人にもうちの親父のように「あんなモンが空を飛ぶなんて馬鹿げている」と拒否感バリバリなのも居るのだから、信じられないというか信じたくないのは仕方ないか。
 逆に「なにそれ、カッコいい〜」と興味津々なラウラみたいなのもいるし。シートに腰掛けてゆったり背凭れに身を委ねたこいつに至っては、怖がるどころか慣れた感じすら受ける。

「お前の住んでた所もこういうのは多いのか?」
「うん。街道とかも一応整備されてるけど、山ばっかりだからね〜。こっちの方がやっぱ便利なのよ〜」

 なるほど、もしかしたらこのロープウェイは彼女の祖国で作られて輸入されたものかもしれないな。
 などと考えながら、シートに横たわったカタリナへと視線を落とす。
 夕暮れ前に辿り着いた山村でようやくまともな休息をとれて、みんな少しだけ余裕を取り戻せた。状況的には未だ追い詰められ、疲労も全くとれていないが、それでも昨日よりはマシといえる。
 しかしカタリナはいつもの快活さを失い、物憂げにぼんやりと天井を見上げている。それは辛い現実から目を背け、塞ぎ込んでしまっているようだ。
 こう塞いでいてはいくらヒーリングを続けても回復は遅くなる。病気ではないが、自然治癒を促進しているだけに本人の気力は重要なのだ。
 だけどどう励ましていいやら。怪我のこともあるだろうが、最たる原因は王太子妃のことだと思う。二人の関係がまず分からんから話の振りようもないし、それを聞き出すってのも気が引ける。
 シートに座って縮こまり、青褪めた顔を俯かせてガタガタ震えているプリムとジャネットになんとなく和みながら、ゴンドラは深緑の峰々を臨みゆっくりと進んでいく。


 そうやってたっぷり半日。
 何度かの乗り換えを経てビビり三人もいい加減怖がり疲れた頃、ゴンドラの旅は終着を迎えた。
 断崖絶壁と洞窟を利用して作られたユニークな港町で一泊して、そこから船で北上することこれまた一日。小型ながらも立派な三角帆に風を受けて海を走るように進む生まれて初めての帆船の旅は、悪夢の一言に尽きる。
 いや、もうね、酷いんです。揺れとか船酔いとか臭いとか。
 みんな客室でへばっていたのだが、密閉された船室には汗やら潮やらその他様々な臭いが染み付いていて、船酔いの苦しみを倍加してくれやがる。
 堪らず甲板へ出たけど状況が好転するはずもなく、顔を真っ青にしたうら若い乙女たち+トカゲが縁にしがみついてぐったりしていた。健全な青少年の幻想をいろんな意味で打ち砕く物体が縁や船体にこびりついているが、そこはもう勘弁していただきたい。
 そんな地獄の揺り籠に苛まれる拷問も、物見の大声が終わりを告げる。

「右前方に灯り!」

 夕刻を過ぎて深い藍色の空に星が瞬き始めた頃、遥か前方にぼんやりと明かりが見えた。それは薄暗い路地裏で見掛けた電灯の明かりのように仄かでありながら、高い空までを照らす松明のようでもあった。
 カスハール州の都、ビルゴの灯り。この理不尽な逃避行に区切りを付ける終着点だ。


初稿 2013.07.14
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