第零話 神隠し

『七時三十二分発下り、普通列車は――』
 鮨詰め状態の満員電車からホームに降り、首を回して一息吐く。
 高校卒業で就職し、今年で十年。毎朝の通勤ラッシュは慣れた筈だけど、ここ最近は今までとはちょっと違う類の辛さを覚えはじめている。
 疲れがとれ難くなってきたような気がするのだ。
 力仕事が苦になるという程ではないが、以前のように夜通し遊んでそのまま仕事とか、二時間程度寝たらその日一日くらいなら平気なんて無理が利かなくなってきた。
 親戚や顔見知りの学生からはおっさんだの、先輩方からは三十路へのカウントダウンだのとからかわれる事が増えてきたが、こんな形で実感すると少々焦りを感じてしまう。
 今のところ腹が出るような目に見える変化はないが、筋肉の隆起を脂肪の層がうっすらと覆い始めているような気がしなくはない。
 やべぇなぁ。
 学生時代は部活だ遊びだと太る暇が無い生活を送っていたけど、今となっては必要以上に身体を動かそうとも思えなくなってなっている。
 昨日は出張で地元に帰ってきた学生時代の友人を迎えて旧友らとしこたま食って呑んで、明け方近くまでカラオケで騒いだ。
 そのツケは今ぼーっとする頭と全身の怠さとして、そして後々には腹周りの肉となって支払われることになる。
 何とかしなきゃなぁ……と思いはしても、実際に行動を起こすのは面倒臭い。
 今はとりあえず、職場に出勤せねば。

「また神隠しですか」

 そう気を引き締めて足を踏み出そうとすると何処からか聞こえた呟きを耳が捉え、その出所を無意識のうちに目が探す。

「子供の悪戯だろう。マスコミが面白がって取り上げるから、真似をする奴が絶えないんだ」
「悪戯ならともかく本当にそんな事が起こっていたらとしたら、空寒い話ですね。もし身近な所で起こったらと思うと……」

 視線が捉えた先にはきっちりスーツで身を固めた中年の男性が二名。彼らは朝刊を覗き込み、眉根を寄せている。

「バカバカしい。大体行方不明者なぞ年間でどれくらい出ていると思っているのかね。こんな訳の分からん悪戯なんぞで騒ぐよりも、未成年の家出や自殺に目を光らせる方がよっぽど現実的だと思うがね」

 周囲の目も憚らず強い口調で断言した男性に、もう一人は少々納得の行かないような視線を向ける。
 そんな彼らの会話を何となしに聞いていると、別のホームに電車が到着する旨を伝えるアナウンスが響き渡った。
 甲高い軋み音を上げて停車した電車の扉が開き、乗客たちがぞろぞろ降りてくる。その中にはブレザーや古めかしい学ラン姿の学生たちも多く、ある者は携帯電話を弄りながら、ある者は友人と何事か喋くりながらホームから駅舎へ通じる階段へ歩いていく。
 その中にとある少女の姿を見た気がした。
 ハッとなって目を凝らすが見えた筈の姿は何処にもなく、人の波はあっという間に階段へと流れていく。
 その場にしばし呆然と立ち尽くし、脳裏に浮かんだ幻を軽く頭を振って掻き消し溜息を吐く。さっきの会話が割り切ろうにも割り切れない記憶を呼び起こしてしまったのだろう。
 ……いかん、こんなところで物思いに浸っている場合じゃない。
 腕時計を確認するといつも乗っている地下鉄の電車には間に合わないが、朝ラッシュの時間帯なら五分ごとに来るので次のに乗れれば間に合いそうだ。
 急ごうと革靴がアスファルトを蹴って踏み出そうとしたその瞬間、赤い光が行く手を遮るように地面から湧き出した。
 何だ? と思う間もなく腰ほどの高さまで波打つ赤い光は奔り、俺を中心に直径3メートルほどの円となって取り囲む。その内側には丸や三角など様々な図形がレーザー光線のような赤い光によって次々と描かれ、その隙間を埋めるように見たことのない紋様が浮かび上がった。

「これ……!」

 つい先程掻き消した幻が再び目に浮かぶ。
 あの日、玄関先のコンクリートに刻まれた謎の焦げ跡は確かこんな図形だった!
 信じられない気持ちでそれを見下ろし立ち尽くすが、ふと頭の片隅で囁くものに全身の肌がぶわっと一斉に粟立つ。
 ――これが現れた日、恭子はどうなった?
 慌てて光の円陣の外へ逃れようと竦んでしまった足を叱咤して踏み出す、が。

「うおっ!?」

 赤い光は行く手を阻むように目の前で高く伸び上がった。
 咄嗟に両腕で顔を庇ったが光はとんでもない高熱を帯び、晒された手の皮膚やスーツの袖から焦げたような臭いが立ち昇る。
 その事実にギョッと目を剥き、まさかと足元へ視線を向けて頭から血の気が滝のように下がっていく。
 アスファルトに図形を描いているレーザーが一際強く光り、それを踏んでいる革靴の底が溶けていた。
 何だこれ……なんだこれ、なんだよこれ――ッ!?
 恐怖に駆られ、先程の灼熱も突ききる勢いで形振り構わず駆け出そうとしたが、突如レーザー光から伸び上がった光の波を全身で浴びて前のめりに倒れこむ。

「ぎああああぁぁぁぁああぁぁ――――ッ!」

 張裂かんばかりの絶叫が喉を迸った。
 スーツが、シャツが、腕時計が、身に着けている物が見る間に焼け落ちていく。
 地獄と化した円陣から逃れようと遮二無二アスファルトに手を突くと、手首から先がぼろりと焼け落ちた。唖然とする俺のすぐ目前で転がった手首は火の粉のような燐光の粒子を噴き上げながら形を失い、あっという間に跡形も無く消え去ってしまう。

 周囲を見れば、赤い光の円陣を囲んで人集りが出来ていた。
 彼らは遠巻きに見ているだけで、誰も助けてくれない。
 子供の悪戯だ、と強い口調で断言していた先程の男性は顔を強張らせて目を引ん剥き、半分開いた口を戦慄かせて立ち尽くしている。
 消火器を持ってくる人は居ない。それどころか転んだ拍子に手から離れたバッグが光の外で燃え上がっているのを見て、じりじりと後退していく。

「助けて! 誰か助けて!」

 必死だった、ここに及んで恥も外聞も無い。とにかくここから出て、生き延びたかった。
 だけど誰も応えてくれない、誰一人動いてくれない。
 全身を飲み込んだ赤い光は容赦なく身体を火の粉に変えていく。
 何が起こった? どうしてこんなことになった?
 何故俺がこんな目に遭わなければならない?
 十年前のあの日、妹もこうやって全身を焼かれて消えてしまったのか?
 答えの得られない自問が頭の中をぐるぐる駆け巡るが、ふと思い至ったそれに愕然として思考が止まる。そして次に浮かんだのは妹が居なくなってから急速に老け込んでしまった両親の姿。
 親父、母ちゃん……兄妹揃って親不孝で、ごめん。
 腕が肩から崩れ落ち、うつ伏せに転んだ姿勢では目で確認する術は無いが腰から下の感覚も無い。
 絶望と諦観、激しい後悔に沈む中で俺の身体は跡形も無く火の粉と化し、円陣の中で渦を巻く。頭も何も消えてしまったのに何故か残っていた意識も急速に薄れゆき、火の粉が収縮して大きな玉となって円陣の中心へ飛び込んだと同時に意識は途切れた。


初稿 2013.03.09
更新 2013.09.06

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